上級プレイヤーへの道



※:この文章は「深淵がよく分かる本」下巻の為に準備された原稿です。内容大幅見直しのため、ボツ原稿になってしまいましたが、もったいないの一般論に書き直してここにおいておきます。書かれたのが2001年ごろと言うことを思えば、現在のTRPG界の状況を色々と暗示しているようで面白いですねえ。


1 PCを育てる

 何度も繰り返し言っているのでいいかげん聞き飽きたかもしれませんが、ストーリー性の強いTRPGにおいて最も重要なのはPC設定を作るという作業です。端的に言えばPC作成が成功ならそのセッションは成功だし、PC作成が失敗ならそのセッションは失敗です。
 とはいえ、ほとんどのケースにおいてはPC作成は成功と失敗の間のどこかに位置しています。つまり、見るべきところはあるが、どこか物足りない感じがする、こういう感じが実際のPC作成で抱くもっとも一般的な感触でしょう。プレロールド/ハンドアウトを使っているのならば心行くまで練りこめばいいのですが、当日作成のPCの場合見切り発車せざるを得ないというのが常ですから、これはある面では仕方のないことです。
 また、プレロールド/ハンドアウトといえども、マスターの文章力のなさやプレイヤーの文章理解力の乏しさ故に設定がしっくりこないことも良くあることです。
 要するに、どこか腑に落ちないという感じを、PC作成時で完全に消すことは難しいのです。

 PCに対する理解が不完全なままセッションをはじめざるを得ないならば、セッションの序盤は当然PCに対する理解を深めるために使うことになります。セッション開始直後はそれに主眼を置くべきなのです。つまり、純ゲーム性的な理由により、セッションの序盤というのは主にPCを掘り下げるためにのみ使われるべき時間なのです。PC作成はセッションの序盤においても続いている、ぐらいの理解でいてもかまいません。
 また、リアリティという観点から考えた場合にも、そもそも自分の考えがまとまりきらないうちに重大な決定を行うというのはあまりありえないことです。よくわからない他人を信用するというのも同様にリアリティに欠けた行為です。ロールプレイという視点から見ても序盤をPCを掘り下げるために使うというのは妥当であることがわかります。

 (注1)

2 マスター級のプレイヤー

 この節ではマスタリング技術をプレイヤーを行うときにおいていかにして応用できるかということについて考えていきます。ちなみに、この節のタイトルのマスター級のプレイヤーというのは、マスタリング技術を身につけたプレイヤーといった意味です。

 さて、マスタリング技術をプレイヤーとして応用するというのは、具体的には以下の3つの事を指しています(もちろんこれだけではないでしょうが、とりあえずこの節ではこの3つについて扱います)。

(1)イベントを自ら発生させる

 PCの設定を理解し、さらにセッションの流れを読むといったようなことが出来ているのなら、マスターが想定していないようなイベントをPCサイドから起こすといったようなことも出来るようになります。例えば実際にあった例ですが、このHPに載っている拙作の深淵シナリオ"糸"において、なんとしてもユーリを過去の呪縛から救いたいとルシートのプレイヤーが思ったことがありました。このセッションにおいては、ルシートのプレイヤーはリエルの助けも得ながら(この時はリエルもPCとしていました)ユーリの過去を探り、会話を重ね親密になり、遂には全PC同席で話し合いを行うシーンまで持っていき、最後には自らの家系の血に潜む呪いの正体を突き止めるということまで持っていくことが出来ました(え?結局どうなったかって?秘密です・・・)。
 もちろん、多少暴走気味であるのは否めませんが、 それでもこのセッションの緊張感と達成感は格別の物がありました。こういった展開はマスター級のプレイヤーでなければありえない物です。

(2)セッションの流れが読める

 マスターが想定していないイベントをプレイヤーサイドから起こすということまでは、わりに出来る人も多いです。しかし難しいのはその先で、そのイベントをどこに収束させるのか?ということまで考えられる人となると本当に少ないです。つまり、イベントを起こすところまでは出来ても、そのイベントでセッションが面白くなるか?ということまでは考えが回らないのですね、大抵の場合は。

 もちろん、これは相当難度の高い技術です。しかしいずれにせよ、マスター級のプレイヤーであるのならば、セッションの方向性における決定権は、実はマスターよりも格段に強い物であるのです。プレイヤーサイドからストーリーラインの流れを支配する事が出来る、いや、むしろしなければならないのです。このことの意味をよく考えてみてください。

(3)他のPCを活躍させる

 ストーリーラインをプレイヤーサイドから支配する際においてもっとも注意しなければならないのは、他のプレイヤーの操るPCを積極的にストーリーラインにからませるよう意図しなければならない、ということです。TRPGの面白さの一つは掛合いの妙にあるのですから、PC同士の会話がセッションのメインであるように持っていくべきであるのはあたりまえです。このことはプレイヤーサイドでも強く意識されなければならないことです。
 たとえば私がプレイヤーをやっているとき、他のPCのロールプレイを引き出すために事件から手を引いて帰るように忠告したり、魔導師系のPCに「〜さま。人はなぜ死ぬのでしょう?」と哲学的な話題をふってみたりすることがあります。要するに他のプレイヤーをロールプレイせざるを得ない場所に追い込むわけです。
 細かいテクニックは他にもいろいろありますが、いずれにせよプレイヤーサイドから他のプレイヤーのフォローをするというのは、とても面白いチャレンジです。一度研究してみてください。

3 PCとプレイヤー間の距離

 さて、この章の最後の内容は、PCとプレイヤーとの距離の問題、つまりPCに対する感情移入の問題がこの節で扱う内容です。

 端的にいうならば、PCへの感情移入の度合いのありかたの一方の極は「PCは単なるゲームのコマにすぎない」というものであり、もう一方の極は「PCはプレイヤーの分身である」というものです。前者の典型は初期のダンジョンレイダー的TRPG(例えばD&D)であり、後者は熱血専用!や天羅万象に代表されるロールプレイ重視型のTRPGが典型です(注2)。そして過去においては前者的TRPGを好む人間は後者的TRPGを「演技過剰の自己陶酔で気持ち悪い!」として非難しますし、後者的TRPGを好む人間は前者を「それならコンピューターゲームでもやればいいだろ!」と非難してきたわけです。
よく考えればわかるように前者は後者を「ロールプレイは気持ち悪い!」と非難し、後者は前者に「ロールプレイは面白い!」と反論しているのですから、議論がかみ合うわけがありません(注3)。気持ち悪いかどうかと面白いかどうかというのは、評価のものさしとして全く異なります。

まあ、「TRPG自体が気持ち悪い遊びだ」というシニカルな意見もないわけではないでしょうが、この際それはおいておきましょう、それを言っては話が始まりませんので。さて、ここで問題は如何にしてロールプレイから一種の気持ち悪さを除去するか?ということであることになります。「ロールプレイを気持ち悪い」という人はいても「つまらない」と言っている人はいないのですから、気持ち悪ささえ解消できたら問題は解決ですよね。
普通ロールプレイが気持ち悪いといわれるのは、独り善がりな自己陶酔に見えるのが原因なわけですよね。ならばこの独り善がりの部分を消せば良いわけです。そのためには二種類の方法論があります。ここではそのうちのひとつの方法を論じましょう(注4)。
その方法とは、PCとプレイヤーに心理的に適切な距離をおくということです。プレイヤーとPCを同一視してしまえば、自己陶酔にならざるを得ませんし、単なる駒と見ればそれこそコンピューターゲームと変わらなくなります。そのどちらの極にも偏り過ぎないちょうどいい調停点、それを意識して保つことが重要なことであるわけです。私の感触を比喩的に言えば、映画の登場人物に対する感情移入というのがこの場合最もふさわしい距離のとり方だと考えています。映画の登場人物と観客はもちろんまったく別の人物ですが、観客は登場人物のピンチにはハラハラし、悲しみを共有し、残酷なシーンには目をそむけ、時には感情移入のあまり涙を流しさえします。しかし、映画の登場人物と観客の間には絶対的な線があり(注5)、映画が終われば観客は日常に帰っていきます。私はTRPGのPCを扱う際にも、このPCの活躍を楽しんでいる観客であるという視点を心のどこかに持っておくことが、自分のPCとの適切な距離を保つのに重要なことであると思っているのです。この視点を持ってさえいれば、自分のPCが大根役者にならない程度の適切なロールプレイが行えるのではないでしょうか?

最後に、蛇足をひとつだけ。PCとの適切な距離はゲーム性という観点からも重要になります。望む展開を起こすために自分のPCをどう動かすかという考え方は、ストーリー性とゲーム性の両立という問題に対するひとつの示唆を与えてくれるでしょう。

(注1)実はいわゆるキャンペーンシナリオの面白さもこれに起因します。長い時間を共有したPCであるが故の理解の深さ、これがキャンペーンの面白さであり、壮大なシナリオができるというのは現実的にはキャンペーンの面白さとは無関係です。キャンペーンでなければ出来ないような壮大なストーリーラインが、独り善がりにならずに作れるような人間がいったい何人いるでしょう?ほとんどいないですよね。 要するに、キャンペーンの魅力とは、つまりはPCに対する愛着に他ならないのです。
(注2)興味深いことですが、いわゆる一般にゲーム性の強いと言われているゲームは前者の極に偏っており、ストーリー性が強いと言われているゲームは後者の極に偏っています。
 これはストーリー性やゲーム性ということとPCとプレイヤーの距離ということの区別が混乱しているためであると思われます。一般にストーリー性が強いといわれているゲームがとても強いゲーム性を持っていたりすることは良くあります。

例えば天羅万象はゲーム性が弱くストーリー性が強いゲームだと考えられていますが、このゲームを気合というゲーム上有利なポイントを得るためにロールプレイを行うTRPGである、と考えてみるのはどうでしょう。こう考えてみると天羅というのは非常にゲーム性の強いTRPGなのです、実は。
 また、よく考えればわかる通り、実はD&Dというのはおそらく極度にストーリー性が強いゲームになりえます。考えてみてください、これほどデッドリーなゲームバランスでロールプレイ、例えば仲間をかばって敵の足止めするとか、恋人のNPCをかばうという行為がいったいどれほど説得力のあるストーリーを生み出せるのかを。デッドリーかつリアリスティックであるが故に、うまくいったとき生み出せるストーリーのすごさという観点でD&Dにかなうゲームを、私は一つも知りません。
要するに結論を言えば、おそらくゲーム性とストーリー性を対立軸にとらえたのは決定的な誤りだったのです。ゲーム性とストーリー性は両立します、ただ単に見る側の目が曇っているためにそう見えなかっただけなのです。
(注3)この類の論点のかみ合わない議論に人々が興じているさまは、さまざまなネット上の掲示板で見物することが出来ます。過去ログを見るのがもっとも面白いですが、恐ろしいことに現在でもまだこの種の実りのない議論に興じている人々が存在します、やれやれ。
(注4)もうひとつの方法とは、そのために特化して作られたゲームを、プレイヤー全員の了解の下であえて意識的に自己陶酔調で行うということです。要するに、ぜんぜん違う種類のゲームを同じTRPGでひとくくりにするから問題になるのであって、そのために特化したゲームを全員の納得づくでやる分には誰も文句は言えません。
参加者全員がそのつもりでナルシシズムの極み的なTRPGをやるのは、いわばひとの勝手ですし、まあ確かに気持ちいいことなのでしょう。
(注5)少なくとも観客が精神的に健康である限りは