運命考察10 依存症、恐怖症、妄想、友なる動物



 いよいよこのシリーズもこの記事で一旦終わりを迎えることとなりました。9では運命のサブとメインという話についてお話しましたが、今回はそのキャラクターに運命が何をもたらすのか?という事について表題の4つの運命を本に論じていきましょう。

 ごく単純に言うならば、運命というのルールはその人物がどういった人物であるのかのデータ的な裏づけをもたらすルールです(注1)。つまり運命を決定するというのは、その人物の人格形成にどういった要素が影響をあたえているのかということを決定することであるわけです。さて、私が今回の小論で論じたいのは、では運命が与える影響は良い影響であるのか?悪い影響であるのか?ということです。 実は、この問いは結構厄介な問題を含んでいます。このことについて深く考察するのなら、通常そのPCにとって悪い運命だと思われている運命がその人物を守る壁になっていたり、通常好ましいと思われている運命がその人物の成長を妨げる枷となっているケースに思いをはせずにはいられなくなるからです。

 例えば依存症であるとか恐怖症、妄想という運命は一見あまり良いイメージの運命ではありませんが、この運命について深く考察したことのある人ならむしろこれらの運命が守りとして働いていることの方が多いのではないか?という事に気がつくはずです。
 臨床心理学の本にはよく出てくる事ですが、人間というのはあまりにも強い悲しみに出会ったときはむしろショックを受けず淡々としている事が多い、という話があります(プレイヤーをやる時役に立つので覚えておいてください)。これはもちろんその人物が悲しみを受けていないのではなく、あまりにも悲しみの度合いが強いため、まともに心が悲しみを受けるともたないのでそうなるわけなのです、悲しみは後から訪れる、というわけです(注2)。同じように先に上げた3つの運命の場合、それをもたらしたあまりにも恐ろしい何かとの直面を避けるためそういう状態になっているというならば、それはむしろ健全な心の動きであり、そのPCにとって必要なことなのです(もちろんその状況が固化されているのならそれは問題です。またかなり単純に説明したので実はこの説明は正確さ・精密さに欠けています、興味がある人は精神分析学か分析心理学、個人心理学の本をお読みください)。
 私の原稿を読んでいる人で依存症や恐怖症の運命を"何故?"という視点抜きで扱う人はいないと思いますが、これらの運命を扱う時は何故そうなったかという視点とともに、どうすればこの人物が運命と和解できる強さを持てるか?という視点を持つようにしてください。ここであえて和解という言葉を選んだのは、依存症や恐怖症が消えることが望ましいとは限らないという指摘をするためです。ある詩人は(確かリルケだったと思う)、患っていた頭痛のため心理分析治療を受けようとしましたが、「この頭痛が去れば、私の創作の天使も去ってしまうかもしれない」と思いなおし治療を取りやめたそうです。自分が抱えた運命と折り合いをつけながら付き合っていく決心をするという展開は、実はかなり深淵らしい味わい深いセッションをもたらします(このことは過去を暴くことが運命解決の良い方法ではない、という視点を提供してくれます(注3))。

 逆に通常好ましいと考えられている運命がそのPCにとって良くないことをもたらしているケースもあります。通常、友なる動物というのは数ある運命の中でもPCにとって良いものであるというイメージをもたらす、数少ない運命の一つです。特に少年系のテンプレート(白馬を連れた娘はその最たるものですが)にとっては、もう一つの運命と渡り合うための味方としてこの運命が語られることはしばしばあります(注4)。しかしながら友なる動物の存在が守りに見えているばあいに、むしろ友なる動物が守っているせいで運命に立ち向かえない布置が発生しているということはしばしばありえることです。心理療法家の河合隼雄は自分の臨床において、しばしば問題が解決するのと共時的ににその人が飼っていたペットが死ぬということが起きる、と報告しています(注5)。ゲーム的には、私のマスターではPCがこの運命を持っている場合、私は友なる動物を最後に殺すつもりでマスタリングします(黒剣の魔道師が持ってるのはちょっと特殊なので、このテンプレートの場合はそうしませんが)。また自分から逃げようとするPCに対し、逃げるな!というメッセージで序〜中盤に殺すこともよくあります。面白いことに、エンディングの夢歩きにおいて友なる動物が死んでいる方が、生きている場合よりPCの幸せなその後が暗示されることが圧倒的に多いのです(この現象は私のマスターの時のみに限りません)。友なる動物という運命については別れ(死とは限りません)は必須なのかもしれません。

 今回はこのシリーズの9と同様、運命を解釈するこつについて語りました。ではこの辺で筆をおきたいと思います。長々と付き合ってくださりありがとうございました。


(注1)以前別の記事でも書いたことがありますが、セッションにおいてPCがどういう人間であるのかいうことと、そのセッションでどういうストーリーが行われるか?という2つの問いはほぼ等価です。ストーリーという視点から考えるならゲームマスターが作るシナリオというのは、ようするにPCを表現するきっかけ以上のものでも以下のものでもありません。
 私がよく言う"天羅万象ではアーキタイプの数しかストーリーは作れない"、というのはそういう意味です。たとえシナリオが何百本あろうとも、それはその人物がその状況でどうしたかということを、何回も繰り返し述べていることに他ならないのです。
(注2)たとえば"河合隼雄、「日本人という病」潮出版社、1999"参照
(注3)エレンベルガーの大著「無意識の発見」(弘文堂)に出てくる創造の病という言葉を覚えておくと役に立つかもしれません
(注4)動物が持っている運命がもたらす展開、というのももちろんあります。しかしそれが主眼に置かれる場合PCが自分の問題から逃げるために動物の運命に立ち向かっているという捉え方もできます。自分から逃げている人は他人につくしたがるという言葉は昔からよく言われていたことです。
(注5)たとえば河合隼雄、「ユングと心理療法」pp70−104、講談社α文庫、1999等、しかしむしろTRPGにつかうなら武野俊弥、「分裂病の神話」pp92−95、新曜社、1994に出てくる妄想による心の守りと、その守りの消失に伴う悲しみがもたらす強さの方が参考になるかもしれない。