愛について (関連星座:青龍、原蛇、指輪、野槌)



  さて、星座考察実践編の第2回は"愛"についてです(こらそこ!引かないように。べつに僕だって書きたくて書いているわけでは・・・)。

えーと、なんでいきなりこんなテーマかというと、"原蛇って暴走した愛じゃないの?"っていう指摘を受けたんですが、実のところ原蛇=愛だという整理をされてしまうと少し困った事態が発生してしまうのですよね。ただ、それはなぜそうなるのか簡単に書けるような類のことではない、厳密に一つ一つ段階をつみあげ考察を深めていくことによってしか示せないことなので、一つの記事にまとめるという形でしか答えられないのです。

先に結論だけ言っておきますね、色々と考えてみたのですが、もし"愛"ということについてつきつめていくのなら、愛というのは本質的に青龍に属するものとしてしか考えられないんですよ、たぶん。

えっと、まず最初に、愛という言葉がどういった場面に使われるか、ということから考察していきましょう。
たとえばデパートで子供におもちゃを買ってくれとせがまれた母親を思いうかべてください。ある母親は欲しいものが手に入らないのはかわいそうだと考えて即座に買い与えるかもしれません。また別のある母親は甘やかしてしまうのは良くないと思い子供に買い与えることを拒否するかもしれません。
ここで問題になるのは、これら2つの母親の対応について述べた先の文章に対しともに"愛情がゆえに"という修飾句を書き加えても何ら矛盾が無い、というところなのです。つまり同一の状況下においてまったく別の行動が愛ゆえになされるということがありえるわけです。
もう一つ思考実験を行ってみましょうか。二人の人物が公園のゴミ拾いのボランティアを行っているところを想像してください。この二人の人物に、なぜボランティア活動をするんだい?と尋ねたとき、一方の人物が"みんなに気持ち良く公園を使ってもらえたらうれしいからです"と答え、もう一方の人物が"ボランティア活動を行うと入試のとき内申書の内容が良くなるからです"と答えたとしましょう。このとき質問者が前者の人物の行為が愛に基づくものであり、後者の人物の行為には愛はない、と考える事は十分あり得る事です。つまりここにおいては先の例とは逆に、同一の行為が行われているにもかかわらず、一方の行為は愛によるものとされ、もう一方の行為は愛によるものではないと判断され(そして恐らくは非難され)るということがいえるのです(注1)。
この2つの思考実験から、ある人物によってある行動がなされたとき、その行動の背後に愛があるのかどうかは外部から観察するだけではわからない、と言うことができます。確かに現実においてもありとあらゆる行動に"愛ゆえに"という修飾を加えている例が見うけられます。人を殺すことは愛だ、という文章は誤った文章ですが、愛ゆえに人を殺す、という文章は素直に受け入れることができます(よく映画の宣伝で見るでしょう)。つまり、行動との関連で見る限り愛というものは、結果に関与するものでなく、動機に関与するものであるということが言えるでしょう。

さて、ではどのような傾向の動機に基づく行為ならば、それは愛に基づく行為であると言えるとされるのでしょうか?ここで先の2人の母親のことについてもう一度考えてみましょう。
先のような二つの例を出した場合、前者の母親に対し"それは本当の愛ではない"という非難がなされることがありえるのは容易に想像できます。"甘やかされた子供が将来どうなるかということを考えたら、こんなのは本当の愛だとは言えない"という発言を述べる人物が存在しえるだろうことには異論はないでしょう。
この発言者のような人物がいるだろうという想像がなり立つなら、先の言説の分析から"愛"という語がどのような意味を持たされる語として日常において使用されているのか?という事の考察を、この言葉を足がかりとして進めることが可能になります。先の言説からは"本当の愛とうその愛"という2種類の愛概念が存在するという理解を行う事が可能であるということがわかります。そしてそれを区別するのは"〜ということを考えたら"という言葉であるようです。つまり前者の母親の行動が本当の愛でないと非難されたのは、"子供に対して深く考えず、表面しか見ていない"という解釈が先の行為についてなされたのが原因であったようです。

さて、この二人の母親についての考察を更に深めていきます。この例示の際注目して欲しい事が一つあります。それは"子供の欲求は何であったか?"という事です。言うまでもなく子供の欲求はおもちゃを買って欲しいということでした。ということは前者の母親は子供の欲する事をし後者の母親は子供の欲する事をしなかった、その結果前者の母親の行為は偽の愛であるとされ後者の行為は本当の愛であるとされた、と先の状況を整理できます。
さて、それに対し、相手の欲する事をするのは愛であるという言説は、相手の欲する事をしない事が愛であるという言説よりは、愛という語が一般的に使用されうる状況を考えたとき妥当である、と思われます。 しかし、子供の欲する事をしなかった母親の行為を愛であるという言説に妥当性を認め、相手の欲する事をする事が愛であるという言説に妥当性を認めるのならば、なぜこの二つの言説の主張に断裂が生じるのかについて考える必要性が生じるでしょう。
この断裂を埋める鍵になってくれるのは、"本当に"子供の事を思うのなら、という言葉でしょう。"甘やかされた子供はだめになる、子供には今はわからないかもしれないけれど、おもちゃを買い与える事は良くない事なのだ"、という文章の挿入により、先の二つの言説は矛盾する事なく接合できます。いわば"子供が本当に望むのは"という視点が導入される事により、つまり子供の価値基準を否定し母親の価値基準を強制する事により、この母親の行為は愛となるのです。
しかしながら、このような相手の価値観と自分の価値観を同一視する、という行為に傲慢さを感じてしまうのは、はたして私だけなのでしょうか?母親の価値観において子供を支配する、たとえば"子供のために(=愛ゆえに)"一流高校に入り一流大学に進み一流企業に就職する事が人生の価値だと教え込みその道を歩ませる、これが傲慢以外のなんだというのでしょう。しかし、子供のためを思ってという視点からの価値観の延長線上にこの行為はあるのです。
念のため言っておきますが、私は別に子供の価値観を無条件に受け入れろ、などといった牧歌的な主張をするつもりはありません。私は単に愛という名のもとに行われる様々な営みについて考察したときに出会った、ある種のいやな感覚についての説明を行ったにすぎないのです。

少しまわり道をします。よく"キリスト教は愛の宗教である"と言われる事があります。それを表す言葉として"汝の欲するところを人に施せ"という言葉があります。この言葉は、自分の価値観を最も正しいものとして疑うところのない真正の傲慢さに基づく言葉であるとしか、私には感じられません。興味深い事ですが、この言葉とまったく対になる言葉が孔子の言にあります。"己の欲せざるところを人に施すことなかれ"です(注2)。むしろこの言葉のほうに私の感性は愛の存在を認めてしまいます。

さて、本論に戻ります。このいやな感覚は何に起因するか?おそらくそれは愛があげぞこになってしまっているところにあります。ある素晴らしい行為が成された時、その行為の価値はその行為そのものにあり、愛にあるのではありません。公園の例で内申書のためにゴミ拾いをする人物を非難するのなら、愛のためにと言われ成されたすべての行為を非難しなければなりません。その種の、愛、道徳、倫理、善悪といったものによって何かを成すことは行為者にとって明らかに快楽でありえるからです。処刑場へ連行されるソクラテスは"ただ生きるのではなく、良く生きなければならない"と説きました。連行される中、自らの言に殉じたソクラテスが感じていたのは、すさまじい快楽と、そして他者への侮蔑であったはずです。私が野槌についての考察で述べたのはこういうことですし、指輪の愛に吐き気を覚えるといったのもこういう意味です。 はるか昔、誰かがある種の行為について感じるなにか良い感触のものに"愛"という名をつけた、とします。経緯から考えると、この場合"愛"は良いもののはずです。しかし、ある行為がされた時、それに愛をみいだした次の瞬間に、その行為は愛によって汚され、愛はその行為によって汚され、なにか汚らわしい醜悪な代物になり果ててしまうのです(注3)。もしこの場面から愛を光り輝かしいものとして取り出そうとするなら、ある行為によって感性に訴えられた良い感触のなにかを感じた瞬間から、それを愛と名付けその輝きを汚すまでの刹那の間、そこにのみ愛は光としてみい出されるでしょう。
あるかないかすらわからない極限の狭間にしか存在しないもの、私が"愛はむしろ青龍に属する"と言ったのはこういう意味においてなのです。

さて、では愛に現実味を持たせるにはどうすれば良いのでしょう。ここで先程のまわり道が活きてくるのですが、私は〜するでなくむしろ、〜しないという記述による表現の愛の方に現実感の可能性を感じます。おそらく東洋的な世界解釈の中に愛を位置付けようとすれば、無視する愛、理解しない愛といった表現になるのかもしれません。
あまりにも異なった世界観の存在を自らの世界観に受け入れようとするならば、哀れむべき弱者として隔離・保護しようとするか、あるいは自らを教師として正しい道に教え導くしかありません。同情を自らの敵とニーチェはみなしましたが、私は半分だけ賛成です。単に違う価値観を違うものとしてみとめられない、自分と違う価値観を劣ったものとしか理解できない、こういう人物が愛を語り出したとき、なにがおきるのかはもはやギャグでしかありえません(やれやれ)。"たのむから俺を理解するな!"(注4)という叫びは、私には正当に思えますし、いわゆるカルト(=別の価値観を提供してくれるもの)の存在意義の一部はそこにあります。
ここにおいては、愛は無視する、理解しないという形で現われ、その存在すら感じることはないでしょう(人はなにかを無視するとき、無視しようとして無視するのではなく、何も考えずに無視します。念のため言っておきますが、無視と蔑視は違います、あきらかに)。つまり、こちらの道から愛を探そうとしても、意識された瞬間に消えてしまう、虚空の狭間にのみ存在する青龍的なものとして愛は現れるのです。




 やれやれ、とりあえずこのぐらいが私が雄弁に語りえる形での愛についての考察の全てです。ところであなた,もしかしてここまでの議論を馬鹿馬鹿しいと思ってませんか?ご安心下さい、実は私もそう思ってます。要するに"愛については語り得ない。語り得ないものについては沈黙しなければならない"ということが言いたかったんですよ、簡単に言うと。ただ、語り得ないことを語るというのは本来的に不可能な行為なので、今回はこういう回りくどい書き方をするしかなかったんですよね。
 実のところ、散文詩じみた隠喩表現で滲み出させる方が私にもやりやすかったんですよ。ただ、青龍にしろ原蛇にしろそもそも司るものが明らかに言語の限界ラインのはるか上にあるんで、言葉で語るのはある種ナンセンスなんですよ。おかげで、語り得ない、ということを示すのに精一杯になってしまったのはすこし悔しいところですけどね(注5)。


 まあ私も伊達に深淵のプレイ経験3桁を誇ってませんので、最後にここまで読んでくれたサービスの意味も込めて、原蛇と青龍の愛の世界について夢歩きしてみましょうかね?(TRPGの役に立ちそうな話じゃないですよ、この辺で読むのをやめて引き返してもいいんじゃないですか?帰ってこれなくなっても知りませんよ、私は)。


 想像してみてください、あらゆる種類の生物が、あなたも含め一切存在しない世界を。

 探してみてください、この世界において愛は存在するのかを。

 もし、この世界に、愛をあなたが見つけられたなら、それが青龍の愛です。


 考えてみてください、あらゆる種類の生物が、あなた以外に一切存在しない世界を。

 教えてください、その世界に愛は存在するのですか?

 もし、その世界で愛をあなたが感じられたなら、それが原蛇の愛です

(注1)この議論においては、あなたが例示においてあげた行為を愛に基づくと判断するかどうかは、まったく問題にならないという事に注意してください。ここにおいて行われている議論は、ある言葉がどのような場面で使われ、どのような場面で使われる事がないのか、ということを観察する事により、その語がその使用において どのような意味を持たされうるのか、を読みとろうとする議論なのです。
(注2)この2つの対になるフレーズを、この文脈において解説してくれたのは、ある高校時代の友人の一人です。彼によると、この議論はあるSF小説に出てきたものらしいのですが、彼はそのタイトルを忘れてしまったそうです。どなたかタイトルの推測がつく方が居られましたら、ぜひお教えくださるようお願いします。
(注3)指輪が司るのが、言葉であり愛である、というのは非常に興味深いことです。
・愛は言葉によって語られた瞬間に汚される
・指輪は言葉を司る
・指輪は愛を司る
・・・喜劇としか言い様が無いですね(禅の不立文字というのはこういう意味だと私は理解しているのですが、実際のところどうなのでしょう?)。
蛇足ですが、名付けられた瞬間に死んでしまう(石になる場合もある)存在、というモチーフの神話・童話はスウェーデンのガッテン・フィンの物語を初め、世界中に存在します。賢き者キスネスクの属性もこのような意味で理解されるはずです。
最後に一つだけ、もし指輪が上記の議論すべてを受け入れた上で、そのような愛を必要とする絶対弱者のためにあえて言葉と愛を司り、あえて自らを汚らわしきものとしているのなら、この話の意味はまったく変わってきます。もしそうであるならば、私は、その時初めて指輪を聖母と認められるような気がします(私はジャック・ラカンの精神分析理論を、このような哀しみの認識に基づくものだと感じているのですが、もしそうだとすると・・・)。
(注4)この台詞は私が深淵のセッション中に耳にした中で、もっとも含蓄のあるものの一つです。
(注5)もし深淵世界の用語で愛を説明しろ、といわれたら、私はそれは原蛇と青龍の狭間にある、と説明するでしょうね。次の夢歩きはそういう意図で書いてます(デカルト的世界観とスピノザ的世界観の緊張関係を表現したつもりです、一応)。